田舎暮らしを始めたいんだが!!
こんなことに気を付けることが大事だ

田舎暮らしを始めるに当たって、まずは・・・




田畑の観察法

 農業志望者に待ち受けている耕地=田畑は、おおむね荒れた耕作放棄地や遊休地と考えたほうが良い。中には最近まで耕作していたところもあるが、そんな幸運なケースは珍しい。そこで、初めて借りる、あるいは買う田畑を目の前にしたときの観察法は?
 まず注意しなければならないのは、目の前の田畑の荒れように目を奪われないこと。背丈ほどの雑草や茅に覆われていたとしても、それ自体は大したことではない。草を払ってトラクターなどで耕起すればたちどころに耕地に変身する。
 問題は生えている植物の中身。厄介なのは葛などしつこい蔓性の草に覆われていれば、かなり手がかかる。トラクターもロータリーに絡みついて直ぐに動けなくなるからだ。雑木ならまだまし。伐採して根を掘り起こせば済む。ただし田の雑木は盤を根が貫通している可能性があるから、畑への転換を検討したほうが良い。
 その前に、トラクターなどの機械が入る道があるかどうかの確認が必要。もっとも小型ショベルなどで荒起こしをするのを覚悟するなら、たいていの条件のところは機械は入る。
 もちろん機械を頼らずに自らの手足で拓く意欲があるのなら、上記の要点は無意味な注意にすぎない。自分でやってみればわかるが、機械はどううまく操作してもやはり荒っぽい。時間と労力を惜しまないのなら、人力でやったほうがきれいだし、また想像するほど大変ではない。
 あとは水の問題。とくに田なら水量と水路の状態は細かく観察しておくこと。日光条件や土の性質も重要だが、田畑として耕作されていたのであれば、その条件に合う作物や品種は必ずある。


農機具調達の考え方

 農業を志す人にとって壁になるのは初期資金。稼業を継ぐのならいざしらず、まったく新規にそれらを準備しなければならないのだから大変。まあ当面は家屋や田畑などは借りることができたとしても、農機具もすべて借りるというわけにはいかない。
 トラクターはあきらめても最低耕耘機はいる。米や麦をやるなら田植機やバインダー、コンバイン、脱穀機なども考えざるを得ない。さらに草刈り機、動力エンジン、ポンプ、噴霧機……。機械だけでなく小道具も欲をいえばきりがないほどある。
 でもじっと悩む前に、金をかけずに対処する方法を考えよう。
 まずは借りる(買う)農家に付属する機械を調べること。離農家の中には機械一式残しているところも少なくない。使えそうもないものでも、昔のものは丈夫に作ってあるのがあるから、可能なかぎり修理・手入れして使うように工夫しよう。
 そうはいっても、トラクターやコンバインなど大型の機械はさすがに少ないだろう。使えるものなら売ったり、親戚に譲ったりしているからだ。その際は農協の農機バンク、つまり機械のレンタル制度を利用しよう。オペレーターつきで作業を請け負ってくれるところもあるので、当面これを利用したら良い。
 もっともレンタルは、借りる人の時期が集中し自分の都合に合わせて借りられないこともある。やはり自分で持ちたいと思う人は中古を探すこと。農家廃業がどんどん発生しているこの時勢、中古市場は圧倒的な買い手市場になっており、十分に使えるものが半値の半値くらいで手に入る。最寄りに中古センターがない場合は、農機具の販売店に声をかけておけば、そのうち必ず反応があるだろう。
 というわけで、鍬や鎌、消耗品に準じるものはさておき、十万、百万単位のものは、急がずに格安で手にいれる方法を徹底して追求してみること。


地域とのつきあい方

 漁村はまだ開放的だが農山村は閉鎖的で余所者は苦労する、あるいは隣近所の付き合いが密で面倒、と一般には考えられている。
 確かに「隣人われ関せず」の都会に比べれば、互いを知り尽くしている村落共同体の世界には新住民をすぐには受け入れない風土があるし、付き合いも濃度が高いのは否定しない。しかしだからといって、都会の価値観をそのまま持ち込んで腹を立てるのは筋違いというもの。
 もともと村落社会は役割や責任がそれぞれが可能な範囲で公平に分担され(つまり平等とは意味が違う)、相互に助け合うような秩序を持っている。それが視点を変えれば、過剰な押しつけに映ったり、要らぬお節介にみえてしまうのだ。かくして押し付けやお節介を拒否すれば、排除されてしまうというわけだ。
 都会の価値観を捨てて完全に妥協しろとはいわない。古い慣習はじっくり改善していくような努力は惜しむべきではないけれど、しばらくは“郷に入れば郷に従え”で付き合ったほうが良い。必ずその良い部分が見えてくる。阪神大震災でも証明されたように、地域共同体の秩序、とくに相互扶助の風土は、長い伝統の知恵のひとつなのである。
 蛇足ながら、各種の寄り合いや共同作業などへの参加を拒否するのは論外。先ずは率先してその秩序に触れることが最低条件である。


古老の知恵を借りる

 農業にせよ漁業にせよ、あるいは山の仕事にせよ、自然を相手とする一次産業の営みは、その地の風土・環境に絶対的に制約を受ける。そのことは地域に根ざした独自の農法、漁法が必ず伝統的に形作られていることからもわかる。
 たとえば農業を例にとれば、九州の農業と北海道の農業は作物構成も異なるし、同じ作物であっても栽培時期など耕作条件は当然変わる。だけでなく、同じ様に同一地域であっても、山間と平坦地ではこれも栽培条件は変わるし、またある集落の中にあっても田畑一枚ごとに適作物は変わってくる。つまり栽培管理や作物選択などは結局地元の人間にしかわからないということになる。これは漁業や林業についても基本的に変わらない。
 その土地のことを一番知り尽くしているのは老人だ。だから移り住んだ土地で農林漁業を始めるときには、地域の古老にこまめに話を聞き、知恵と技能を学ぶのが肝腎。「菖蒲の花が咲く頃に大豆は蒔く」などのような得難い知識を、四方山話のなかで授けてくれるだろう。


廃屋のみかた

 田舎暮らしの第一歩は廃屋暮らしから、というのが普通のケース。廃屋といっても、後半の受け入れ自治体情報をご覧になればわかるように、内容は千差万別。築後数年の新しい家(これは廃屋とは呼べないから普通の空き家)から、ほとんど崩れかけた家まで含む。すぐ住める家は別にして、手を入れなければならない物件は評価が難しい。ここでその際のチェックポイントを挙げておけば……。
 まず外観や内装の破損度合、つまりみてくれは大して重要ではない。最近は安価で強い内外壁材があるので、張り替えても思ったほど費用はかからない。むしろ注意するのは屋根と基礎。
 屋根は最上部の“棟(むね)”をよく観察しよう。棟が真っ直ぐに通っていれば、家の骨格はまず大丈夫。もし歪みがきていれば、雨漏りなどで内部の骨組みが傷んでいると考えたほうが良い。もちろんその場合でも新築するより安上がりに改修できる場合が多いが、将来的な見通しを考慮して大工さんと相談すること。仮住まいか永住するかで対応は変わってくる。
 基礎のほうはちゃんと基礎コンクリートが打ってあるかどうかがポイント。昔の家は基礎石に柱を乗っけている作りが普通で、この方が床下の風通しがよく家の保持には有効なのだが、基礎柱が腐蝕しているとやはり危険。コンクリート基礎の場合はシロアリの被害がなければ腐蝕の心配は少ない。
 あとは風呂。古い家なら直炊きの五右衛門風呂が多いが、この釜の底部が熱で傷んでいる場合がある。もし補修が困難で釜を代えなければならないとしたら、風呂場全体を潰してやらなければならない場合が多いから、意外に費用がかさむ。
 以上が問題なければ、おおむね大丈夫。床板や根太(ねだ…床を支える横木)などが傷んでいて床がぼこぼこであっても、これも大した修理にはならない。骨組みや屋根さえしっかりしていれば、住むぶんには何も問題はない。あとの改修の度合いは本人の価値観の問題だ。美意識にこだわるか、家をたんに雨露を凌ぐ覆いと考えるか、である。


役場の活用法

 一般に都会の人間が過疎の村に入る場合、村内に知り合いなどがいれば別だが、村に溶け込むまでに時間がかかるのが普通。時間がかかっても溶け込めればいいのだが、なにぶん村人からみれば“変人”であることは間違いないから、ちょっとしたことで行き違いが生じ、関係が気まずくなることは十分予想される。そうなったら関係回復に相当の時間が必要になると覚悟せねばならない。
 これが役場の紹介となると集落の対応はガラッと変わる。誤解を恐れずにいえば、村落社会で一目置かれるのは役場の人間と教師。それだけ信用があると考えられている。したがって役場の紹介ということになれば、まず最初の関門をくぐったと見なされて、ともかく村の一員としてエントリーされる。
 今回、役場が窓口になっての受け入れ情報にしたのは、ひとつにはこのメカニズムを旨く活用しようという意図に基づいている。役場というのは地域の情報が集中する場所だ。これを活用しないという手はない。
 それだけではなく、役場は国の行政の末端機構であるから、農林業に新規に従事する人を対象とした、国のさまざまな助成制度や利用できる融資制度など、田舎暮らしを始めようとする人に対する相談窓口の役割を果たしてくれる。農業志望者は農政課に、漁業志望者は水産課に、事業を起こそうという人は商工課に……という具合に、ちゃんと専門的な助言をしてくれる。
 さらに余談を付け加えれば、役場はいわば住民の“よろず相談役”である。嫁不足となればお嫁さん捜しをしている役場職員もいるし、仕事がなければ職業安定所の代行もやる。
 情報の宝庫であり、行政の相談窓口であり、よろず相談所である役場を効果的に活用しよう。


組織漁業と一本釣り

 ごく大雑把にいえば、農村と漁村の風土的な違いは、人間関係の質の違いにある。漁村は他人の家にズカズカ入ってくるような明けっ広げなところがあるが、農村は互いに熟知しあっていても、表面的には決して踏み込まない。
 これは農業の世界が基本的に“個”として完結しているからだろう。もちろん田植えや水路掃除やの共同作業はあるが、それは互いの仕事を補完し合うだけであって、作物の管理はあくまで個人の仕事だ。
 これに対し漁業のほうは、協力し合わなければ漁そのものができないという場面が多い。昔ながらの追い込み漁や篝火漁を始め、現在の定置網や巻網漁などいわば組織的な作業が海の世界の基本であるといって良い。そこでは“個”よりも集団の利害が優先する。まして「板子一枚下は地獄」という厳しい海の世界、互いが協力し合わなければ命を失ってしまう。
 漁業で田舎暮らしを、と考えている人は、最初はこうした組織漁業の一員としてスタートするのが普通だろうから、漁師の世界について一定わきまえておく必要があるだろう。もちろん漁師にも“個人経営”の形態はある。一本釣りや刺し網、延縄、あるいは潜りなどだ。でもそれらはいわば“プロの仕事”に属する。海のことを熟知し、技能を磨き、天候を自分で判断しながら海と格闘する世界だから、現実には定置網や巻網などの組織漁業で腕と知識を磨いてから、ということになるだろう。
 定置網や巻網の漁師の世界には、互いに自分をさらけ出さなければ通じないような濃密な人間関係がある。都会の孤立した人間関係の中にいた人には、最初は煩わしいと感じられることも多いに違いない。けれどその濃密な、明けっ広げの関係がないと呼吸をぴったり合わせた共同作業ができないのだ。
 魚に向かっているときの漁師は荒っぽい。怒鳴り合って作業の緊張を保つ。が陸(おか)に上がったら、無口になるか陽気に朝から酒を飲むかだ。そんな男臭ふんぷんたる世界に、長い人生の中で一度は触れてみる価値はある。


林業を志す人に

 都会地周辺の森林組合や、民間の大きな林業会社の作業員に応募する人たちが急増している。田舎暮らしのいまの潮流の中で、短期的には“主流”になった感さえある。
 この傾向にはいくつかの条件が重なっている。
 ひとつは林業不振で後継者が不足している状況に危機感を抱いた国や県が、森林労働者の身分保障を制度化し始めたことである。日当制でかつ社会保障など未整備であれば、後継者育成などおぼつかない。保険や年金を充実し、給与も固定給方式でできれば賞与もつける…という制度づくりを進めた結果、森林組合の作業員が通常のサラリーマンに近い待遇条件になった。
 通常の仕事としてみた場合、森林労働ならではの良さはある。たとえば山の仕事だから日が暮れれば仕事は終わる。つまり残業など無縁の世界。雨が降れば外の仕事はない。
 また、作業は小チーム編成で進められるのが普通で、週間月間の大まかな作業目標は設定されるが、毎日の仕事は概して自由度が大きい。企業の組織労働とは違って拘束される局面が少ないといえるだろう。
 そして何より魅力的なのは、自然の中で伸び伸びと仕事ができるという点だろう。伐採や下刈り、技打ちといったダイナミックな仕事に汗を流し、野鳥や虫たちに囲まれて弁当を開く。壮快な世界がそこにはある。
 かくして、自然派の田舎暮らし希望者にとって魅力的な仕事として、森林労働が見直されることになる……。
 むろんいいことづくめだけではない。チェーンソーや草刈り機を扱う作業だから気を抜けば危険が伴うし、伐採作業も注意しないと倒木に弾き飛ばされてしまう。加えてやはり肉体的にはきわめてハード。山仕事の弁当は一升飯といわれるくらい肉体を酷使する。まあ最近はそんな無茶はしないだろうが、楽な仕事でないことだけは確かだ。
 そこでアドバイスをひとこと。
 肉体労働というのは体が馴れるまでが勝負。それは体力がつくかどうかということももちろんあるが、力の抜き方のコツを覚えるかどうかで疲労度合いが極端に違ってくる。その期間は人によっても違うだろうが、何日という単位ではなく、数か月の単位だ。この間をともかく耐えること。最初は一時間で音を上げるような仕事も、馴れてくれば一日があっという間に終わるようになる。それを信じて耐えることである。
 最近の人工林は針葉樹一辺倒の植林ではなく、広葉樹など昔の山の姿の戻すような試みが進んでいる。森林労働には、山を回復し、自然を回復するという息の長い、きわめて有意義な仕事が待ち受けていることを自覚しよう。そうしたロマンを抱く人なら、必ず夢あふれる職場となるだろう。


人は可能なことのみ空想する

 人は自分の将来の行動を予想し、こうしたいと思い描き、詳細について構想する能力を持っている。その思い描く中身が仮荒唐無稽なものであったとしても、ちっとも構わない。要はそうしたとりとめない発想や構想は、自らにとってなんらかの現実的な根拠を持っていると認識することかどうかだ。
 昔ある思想家はいった。「人は可能なことのみ空想する」と。逆にいえば、人は空想した時点で、半ばは実現されているということだ。夢のような話、子供じみた空想などと自分で打ち消す前に、その実現可能性のシナリオを描く作業を楽しんでみること。そこに自分らしさが表れてくる。
 ニュートンの林檎の話を持ち出すまでもなく、世の中、ちょっとした思いつきがとてつもない発見につながることがよくある。問題はその思いつきが、日常的に積み重ねてきた自分の希望や意欲、考え方に根差したものであると、とりあえずは信じてみることである。
 いま、田舎暮らしを“夢想”している人もまた同じ。その夢想にはあなたらしさがどこかに潜んでいる。空想するのは自由だから、思いきりその空想を楽しもう。どんどん空想の羽を伸ばし、広げてみよう。
 シナリオはいくつも描けるはずだ。がいくつ描いてみても同じところをグルグル回っていることに気づくだろう。“自分らしい生き方は何か”という問いに対する、それが自分の解答である。
 空想や夢想の中にこそ、自分の指向性が表れるのだし、それは実現されるべきものとして発想されているのだ。さしあたりそのことだけは信じることにしよう。